『ゴジラ-0.0』の単なるなる反米映画ではないメッセージ性と、続編への強烈な懸念
どうも、松本13です。今回は、「『ゴジラ-0.0』 の単なる反米映画で終わることのない反核メッセージの秀逸さと強烈な続編への懸念」についてです。 国内外問わず、興行収入ともに大成功となっている『ゴジラ- 0.0』。 今作がここまで大成功となったのって、エンタメ作品としてのゴジラ映画としての素晴らしさはもちろんのこと、作品単体としての面白さや、メッセージ性の強さみたいな部分も大いに関係あると思うんですよね。 大国の横暴がまかり通っている今だからこそ必要とされる映画であり、誰もが思っているけれど大っぴらには口に出せないようなアンチテーゼを代弁してくれたという部分でも、非常に素晴らしいと思うんですよね。 反戦・反核という意味では、本当に時代に合致した作品だと思うんですよね。 これはあくまでも私個人の解釈なのですが、今作における日本の立ち位置ってすごく弱いんですよね。 とにかくゴジラやキングギドラのような巨大な存在が容赦なく暴れ回っていまして。ただ、日本は戦後ゆえにろくな兵器もなければ自衛隊もない。戦後の米国統治下ゆえに国家主権すら曖昧みたいな状態でありまして。 にもかかわらず、アメリカは助けてくれないんですよね。 なんかこの構図って、核保有国である中国やロシアに囲まれながら、同盟国であるアメリカもあまり頼りにならないような状態である現在の世界情勢に、めちゃくちゃしっくりくると思うんですよね。 そのような社会的であったり政治的な部分を直接反映させた映画となるとまた別かと思うのですが、ただ、存在そのものとしては非常にポップなアイコンである「ゴジラ」という存在が代弁しているからこそ、多くの人の心に届いたという面も少なからずあると思うんですよね。 これはあくまで個人の解釈なので今作に必ずしもそのような意図があるかはわかりませんが。 そもそも1954年の第1作目のゴジラって、戦時中に核を2発ぶち込まれた上に、1954年にアメリカの水爆実験によって日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆するという事件がきっかけになった、本当に核に対する怒りの象徴なんですよね。 そのような象徴的存在としての役割みたいな部分では、本当に今作はかなり素晴らしく機能していると思うんですよね。 実際、監督である山崎貴監督自身も、クリストファー・ノーラン監督による原爆映画『オッペンハイマー』に対するアン...